村上春樹さんの『女のいない男たち』の中に『木野』という物語があります。
傷ついてしかるべき時に傷つかなかった主人公木野が
そのために「何か」を欠いてしまい
邪なものにつけ入られ始めてようやく
自分の感情や感覚を取り戻し始めるような
そんな話です。
あまりに傷ついてる時って、
自分を護ろうとする無意識の作用が働いて
その傷を見ないようにして
安全なところに一時的に心を置くことがあります。
それを見たら自分のそれまでの生き方や
今必死で保っている生活が崩壊しちゃうかもしれないので
人の心の動きとしてはそれはある意味自然なことだと思います。
でも、見ないでおいたことは
いつか自分を「ノック」し始めます。
木野が身を置いていたホテルのドアが
何者かにずっとノックされているように。
それは自分が気がつくまでずっと続くんですね。
物語中に、主人公が
神の化身である柳を思い出すところがあるのだけど
たった数行のそのシーンがとても印象的でした。
「雨の日には水滴をたたえて
風の日には定まらない心を揺らせる」
それが自然の姿なんだよ、と体現してくれるような柳を回想するシーン。
雨が降っている時に
自分に対して平気なふりをしたりしなくていい
というかそうしてしまったら
その深さの分
それ相応のつけが回ってくるんだよ
傷に向かい合うのは自分の心に対する責任なんだよ
と
神の化身が言っているような気がします。
でも思うのですが
心(というか自然というか)は厳しいですね。
向かい合うと死ぬかもしれないから
生きていくために一時的に
安全なところに心を置いたのに
しかも意識としては別に悪気もなく逃げようという気もなくそうしているのに
今度はそのことが自分を窮地に追いやるなんて。
けれども
それが人の本質と外れてるから
窮地に追い込むほどの警笛を鳴らして
気がつくまでしつこくしつこくノックするのでしょう。
そのノック(心や魂からの呼びかけ)にこたえることで
その人がその人らしく生きる道が拓けていく。
本当は、窮地に追いやられるまでに気がつけばいいのだろうけど
そうもいかない時もあります。
私にもそういうことはあります。
アーノルド・ミンデルというプロセスワーク心理学の第一人者は
「無意識であることや自覚の欠如もまた、自然の一部」
と言っています(出典忘れました、ごめんなさい)。
自覚できないこともある
でも時が来たら自覚を促す。
そこまでしてその人の本質に戻らせたい心。
死にそうになることからも護るけど
自分に忠実でないことにも警告を発する。
なんだか心というのは、厳しくも深い愛があるのだなあと思います。
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